校訓・校章・校歌

校訓・校章・校歌

校訓

勤労・自治・協和

1.勤労と責任を重んじ、社会の進展に貢献する実践力を培う

2.自主自立の気風を喚起し、進んで工夫する態度を養う

3.礼儀と協和を尊び、健康で明朗な心身の発達に努める

 

校章

三枚の柏葉の中央に西高のNと高を象った校章

校歌

 


本校の歴史と校歌について

校長 広瀬 徹

本校は、大正十三年四月に開校し、新入生の皆さんが三年生に進級する令和六年度に百周年を迎える、伝統のある学校です。
今から十数年前に富山市に編入されるまで、本校の ある旧婦中町は、婦負郡という郡部に属していました。
百年ほど前の、大正時代の末には、現代と違い、各郡が議会を持っていて、当時、この郡に県立の学校がなかったことから、婦負郡議会が県に要請し、本校の前身・婦負農学校の創立が実現されました。
しかし、創立後、数年、校歌をもたなかった本校の、第三代校長遠藤義助先生が、当時東京で活躍していた、文学者・相馬御風先生に、校歌の作詞をぜひお願いしたいという手紙をしたためました。そして、
「相馬先生は、このところ、新潟県糸魚川市のご実家に いらっしゃるはずなので、学校を長く不在にできない遠藤校長に代わり、私がその手紙を届けましよう。」ということだったのでしようか、使者の役を買って出たのが、本校創立に尽力され、当時、ここ速星地区の有力者であった、井上清孝さんという方でした。
この学校に思い入れの深かった井上さんの張り切りようが想像に難くありませんが、皮肉にも相馬先生は、 井上さんが訪ねた日、旅行で自宅を留守にしていました。あとで、恐縮した相馬先生が、隣の県から時間をかけて、わざわざ自分を訪ねてくれた井上さんあてに、おわびの 手紙を書き、その中で、遠藤校長の熱意にこたえて、校歌の良い歌詞を作詞したいと、約しています。
現代では、あらかじめ電話やメールなどで約束して おけば、遠方に人を訪ねて、しまった、空振りだったということは、ほとんどないことだと思います。しかし、 固定電話でさえそれほど多くはなかった九十年ほど前 の、この、留守で会えなかったというすれ違いをわびる 手紙で、相馬先生、井上さん、遠藤校長という三人の方 の熱い思いが、逆に一つにつながって、手に取るように伝わってきます。のちに井上さんご本人か、そのご家族が学校に寄贈してくださったのでしようか、この手紙が横長の額に入って、校長室の校歌額の下に掲げられています。
のちほど、この入学式の中で紹介される、本校の校歌の歌詞の策定には、このような経緯があります。農業系の学科が、姿を消し、現在は普通科単独校になった本校ですが、コロナ禍により、大きな声で校歌を歌うことができない今だからこそ、新入生の皆さんも、校歌にまつわる先人のご苦労に、思いをはせていただけると、幸いです。
(令和四年度 富山県立富山西高等学校入学式式辞より)

 

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